massacreとgenocideの間にどれくらいの距離がある?(本日読んだエントリー)
先日のエントリーで、以下の論点を示した。
論点4:massacreとgenocideを区別したとして、それで?
Dryad
『横から失礼します。finalventさんは「massacreとgenocideの違い」に拘っているのではないか、という話が出ていますが、それを阻止するために取られるべき対策(システム的あるいは個人道徳的)にどのくらい違いがあるものなんでしょうか?
この問題意識の延長上で、sleepless_night氏の「隔たり」というエントリーを読んだ。
http://may13th.exblog.jp/2843908
これは、先日拙ブログで紹介した「殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド」の続編である。
http://may13th.exblog.jp/2830934
ちなみに、氏のいう「殺人の誘惑」はmassacre、「殺人の情熱」はgenocideに符合するだろう。
「隔たり]の冒頭部分より。
では、私たちは、私はジェノサイドを実現することは出来ないのか?する可能性はないのか?
誘惑と情熱の間には質的な差異が存在し、私たちの立つ地面が情熱の殺人の歴史を持たないとして、私たちに(私に)情熱の地へと跳躍する可能性はないのか?(※)
誘惑と情熱の間には、跳躍できない程の距離が存在するのか?
結論の部分より。
“権力を枯渇”するパーソナリティが、パーソナリティの座を役割に明け渡す。
役割にパーソナリティを奪われてしまえば、その人を憎む必要すらなく、“奴ら”を憎めればよい。
誘惑と情熱の間には、確かに質的な差異が存在する。
しかし、それは一跨ぎできる距離でしかないのでしょう。
その程度の距離が、体験した者としていない者との間に実際的な想像を阻む。
その程度の距離しかないから、私は、私たちは想像し得ないものを想像することを避けてはならない、と思えます。
ここで目に留まったのは、「役割にパーソナリティを奪われてしまえば、その人を憎む必要すらなく、“奴ら”を憎めればよい。」という言葉だった。
これはhokusyu氏の以下の発言と相通ずるのではないだろうか。
「虐殺を引き起こさない/止めるシステム」を考えることは必要。しかし、それ以前に、我々が「個人」であることが重要なのではないか。
「虐殺を引き起こさないために」「我々」は「彼ら」に心を許してはならないラインがあるのだという発想は、容易に「この世から一つの民族が一人残らずいなくなって欲しいという願い」とリンクしかねない。