町山智浩氏の言説の誤読のされ方‥travieso氏の「メディア・リテラシー?」を参照しつつ考える(1)


はじめに
ホテル・ルワンダ」、及び同映画パンフレットの町山智浩氏のテキストをめぐる議論が、mahorobasuke氏の
、「気が付くってもしかして不幸なことかも:「ホテル・ルワンダ」を見て - livedoor Blog(ブログ)」を契機にして起こっている。
すでに多くの方が言及しておられるが、議論の流れを見たうえでの私なりの考察を述べたい。

この中、先日まで愛・蔵太氏と論戦を行っていた(お疲れさまです)浮雲氏がこの件に関しhttp://naruse.exblog.jp/2749923/「幾つか読んでみて」というエントリーを行っており、そこで浮雲氏はmahorobasuke氏の言動を二つの事象に分けて考えることを提案している。

1;彼女が、町山氏がルワンダの話を在日朝鮮人関連の問題と結びつけて書いたのに、違和感を持った事
2;彼女が朝鮮人虐殺の事について、全く穏当ではない事を述べた事

そのうえで浮雲氏は、1については「意見を共有」しつつ、2については「賛成できない」という見解を明確にしている。以下のとおり。

たとえば私は、前者については意見を共有するが、後者については彼女の態度に全く賛成できない。


私は問題を2点に分離するという浮き雲氏の観点を高く評価する。そのいっぽう、同時に上記1に関する「意見を共有」するという見解にははっきりと批判的見解を持つ。

今回は浮き雲氏のテキスト読解への批判をおこないつつ、町山氏の言説が誤読される現象全般についても多少の言及を行おうと思う。

参照
町山智浩2006-01-14 「ホテル・ルワンダ」と「帰ってきたウルトラマン」以下、〔町山1/14〕と表記
町山智浩 「2006-02-25『ホテル・ルワンダ』なんか何の役にも立たない!この人を見よ!」以下、〔町山2/25〕と表記
浮雲「幾つか読んでみて」以下、〔浮雲2/26〕と表記


浮雲氏の〔町山1/14〕批判
浮雲氏によれば、氏は〔町山2/25〕の前に〔町山1/14〕を読んでいる。そして〔町山1/14〕に最初に読んだ町山氏の記事への印象が強く、そこに不信感が残っているのはたしかだと言う。(浮雲2/26コメント欄参照)その影響もあって上記問題1に関して「意見を共有」している旨を言明している。


浮雲氏は上記〔町山1/14〕に関して、こう述べる。

これを読んだ時、私は「なぜ虐殺と、『ただの差別』虐殺から人を救う事と、『ただの差別』に関する話を、同列に論じるのか」と疑問を持った。その選択はあまりに恣意的であり、要するに彼は、自民族への差別を書きたいだけだと、当時私は思った。結局彼は、ルワンダの人々を利用したのだという印象が、その時の私には残ってしまった。


これが私にはわからない。まず事実問題として、町山氏が上の日記で取り上げているのは「在日」ではなく(東京や大阪に住む)沖縄人差別や沖縄人への「襲撃」である。具体的にはウルトラマンのある一話「怪獣使いと少年」を参照例として述べているわけだ。町山氏はこう述べている。

長い間、このエピソードは川崎に住む朝鮮人労働者をモデルにした話だと思われてきたが、

実は脚本家の上原正三氏は沖縄出身で、東京や大阪の工業地帯で暮らす出稼ぎの沖縄人労働者をモデルにして、このエピソードを書いた。

言葉や風俗の違う沖縄人労働者は朝鮮人と同じように日本人から差別され、沖縄名ではアパートなども借りられなかった。実際、襲撃される事件も起こった。

どうして浮雲氏はこれを「町山氏は在日差別と結びつけた」とか、あるいは「自民族への差別」と読んだのだろう。
冒頭部をもう一度引用する。

これを読んだ時、私は「なぜ虐殺と、『ただの差別』虐殺から人を救う事と、『ただの差別』に関する話を、同列に論じるのか」と疑問を持った。その選択はあまりに恣意的であり、

これも私にはわからない。そもそもルワンダの事件とウルトラマンの「怪獣使いと少年」の話は「民族間暴力」の問題で通底しているわけだし(片方はメタファーだが)、ましてや「怪獣使いと少年」において「老人」は虐殺されてしまうのだから、「虐殺」または「虐殺から人を救う」と、「ただの差別」という二分論は成り立つとは思えない。にもかかわらず浮雲氏はこの二つの話を「虐殺(からの救助)」と「差別」の問題に分離してしまうのである。

私は、この「虐殺(虐殺救助)」と「差別」という分離はあまりに恣意的であると考える。

話を進める。
浮雲氏はこう述べる。

彼はそこで、時にリベラルの人間がするように、「己に正義あり」という態度を取ったが、それは私には偽善にしか見えなかった。そして多くの人がその摩り替え(追記 結果的にせよ)の事実に無神経であった事に、「ホテル・ルワンダに今騒いでいる連中は、その程度のものなのだな」と思った。

私は疑問に思ったのだが、浮雲氏は町山氏の文を最後まで読んだうえでこう述べているのだろうか。町山氏はこう述べている。

ポールさん自身は英語版DVDの付録で『ホテル・ルワンダ』を見た人に求めることとして次のように言っている。

ルワンダを教訓にして、この悲劇を繰り返さないで欲しい」

つまり、ルワンダへの寄付ではなくて、あなた自身の生きる場所でルワンダの教訓を活かせ、と言っている。
この映画の虐殺は「たまたま」ルワンダで起こったが、「アフリカ版『シンドラーのリスト』」と言われているように、このような虐殺はアフリカ、いや「後進国」だから起きたのではない。
世界中のどこでも起こるし、これからも起こるだろう。

そもそも『ホテル・ルワンダ』の監督テリー・ジョージはアフリカへの関心からではなく、北アイルランドで生まれ育ち、カソリックプロテスタントの殺しあいの板ばさみになって苦しんだ自分をポールに投影して、この映画を企画した。
だからルワンダよりもポール個人に焦点を絞った。

つい、この間も「先進国」であるオーストラリアで群衆がアラブ人を無差別に襲撃する事件が起こった。ボスニア民族浄化もついこの間のことだし、関東大震災朝鮮人虐殺からもまだ百年経っていない。もちろんアメリカでもヘイト・クライム(差別による暴力・殺人)は起こり続けている。

ホテル・ルワンダ』という映画が観客に求めているのは、アフリカへの理解や、国際社会の対応よりもまず、観客一人一人の中にある排他性、つまり「虐殺の芽」を摘むことなのだ。


この町山氏の文章は、虐殺の芽、つまり排他性が世界中遍く存在すること、それはオーストラリアにもボスニアにも日本にもアメリカにも存在し・または存在したし、重要なのは一人一人の「虐殺の芽」を摘むことだ、という主題で一貫している。(付言すれば町山氏のこの主題は、ホテルマンの「ポール」の行動を主軸に映画を構成したテリー・ジョージ監督の問題意識、北アイルランド出身のジョージ監督自身の苦悩に思いを向ける作業から導きだされている)

そういう大枠の中でルワンダのポールさんと「怪獣使い」のパン屋の少女は排他主義への非同調を貫いたひとつのケース、具体的には職業倫理をもって排他主義への非同調を貫いた事例として参照されている。そして「ポールさんのように行動できる」かをひとつの指標として町山氏は示す。

浮き雲氏は、この文のどこに「偽善」と「すり替え」が潜んでいると感じたのか。どの点だろうか、私には少し想像しがたいものがあるが、ともかく浮雲氏はこの文に批判的であることは確かである。この点は後でもう一度考察する。



浮雲氏の、映画パンフの町山テキストへの疑問

浮き雲氏は、「ホテル・ルワンダ」のパンフレットの町山氏のテキストに関して、こう述べる。(太字は煙による)

今回彼女が「パンフレットに、なぜ朝鮮人虐殺のことを書かなければいけないのか」という事に疑問を持った事のみは、私にも理解できる。町山氏は「アイヌの話でも、沖縄でも、アルメニア人虐殺の話でも何でもよかった」と書いているが、それは真実ではないだろう。おそらく彼は絶対に、在日朝鮮人に関係のあることしか書かなかった。なぜなら冒頭に書いたように、最初彼は「在日『差別』」と関連させて書いていたからだ。しかし、それは無意識の選択だったかもしれないし、実際の所、昔を知らない彼の中で、関東大震災での虐殺が、重要なウェートを占めているようにも思われない。

私はこの個所を読んでいて、「おそらく彼は絶対に、在日朝鮮人に関係のあることしか書かなかった」という文の「絶対」という個所で大きく気持ちが引いてしまった。先に述べたとおり「怪獣使いと少年」は沖縄人差別・襲撃をメタファーとした作品だからだ。

最後のほうで浮雲氏はこう述べる。

右でも左でも政治的というより、党派的な言論がネットや実際の言論界を支配している。今回の町山氏のそもそもの「批評」も、それが本来違う文脈に、牽強付会に近い形で載せられたものである事からして、「偏っている」といわれても仕方のないものだっただったと思う。

この「偏っていると思われても仕方がないと思う」という見解は、「本来違う文脈」に、関東大震災の事件が「牽強付会に近い形で」載せられという認識を基盤としている。
そしてこの認識が、先に私が述べた「虐殺」と「差別」の分離、という構図から導かれているのはほぼ確かである。


「本来違う文脈」なのか、「牽強付会に近い」のか

ここで問題を立てる。
関東大震災の事件に言及するのは「本来違う文脈」なのか、「牽強付会に近い」のか。

「本来違う文脈」という認識には、町山氏がその文で訴えていた「排他性」「非同調」「虐殺の芽を摘む」といった主題は全く顧みられていないように思える。
これらの主題は無視されたのか。それともそういう主題に言及すること自体が「本来違う文脈」ということなのか。

ここで気になったことが1点ある。

町山氏(「ホテル・ルワンダ」の日本上映に尽力した人間でもある)は「ホテル・ルワンダ」のジョージ監督の演出意図、モデルとなったポールさん自身のメッセージを彼なりに読みとる形で、先に述べたような「排他性」「非同調」「虐殺の芽を摘む」といった主題を提示している。
これに対し浮雲氏は、実は「ホテル・ルワンダ」を観ていない(浮雲2/26コメント欄参照)。つまり浮雲氏は、自らは観ていない「ホテル・ルワンダ」に関して町山氏の言説を「本来違う文脈」と述べたわけである。
これは少々無理があるのではないか。


「本来違う文脈」という指摘は、町山氏の言説が映画の主題から大きく逸脱している場合に成り立つはずなのだが、浮雲氏は乏しい情報を根拠にした「ホテル・ルワンダ」像から、町山テキストを、「牽強付会に近い」と述べてしまっているのである。それでどうやって「本来」と「本来違う」を峻別できるというのだろうか。

これは軽率のそしりを免れないのではないか。

そして、乏しい(だって作品を見ていないのだから、構成も演出意図もわからないはずだ。よっぽど下調べしていれば別だが)情報量で構成された「ホテル・ルワンダ」像から、「本来違う文脈」という「印象」が導かれ、浮雲氏はmahorobasuke氏氏と「意見を共有する」のである。



「町山テキスト誤読症候群」?

ここまで、浮雲さんの言説を考察してみた。とりあえず指摘できる問題点は
A・沖縄人差別・襲撃に言及しているのに朝鮮人差別の話と誤読した
B・作品を観ておらず、不十分な知識・情報しかもっていないのに「本来違う文脈」と判断した
C・「ホテル・ルワンダ」と「怪獣使いと少年」の通底性を鑑みず、「虐殺(虐殺救助)」と「差別」に分離した


ここで、travieso氏さんの「[思ったこと]メディア・リテラシー?」を参照したい。その後の愛・蔵太さんとの議論が衆目を集めたが、元のテキストの結論部分には次のように書かれている。

日本でいう「メディア・リテラシー」は余りにも「誰が」語るかに注目しすぎではないだろうか。同様に「いつ」、「どこで」、「何を」、「どのように」、「誰に対して」語るのかについても十分注意すべきではないだろうか。

もし、「誰が」のみに焦点があたりすぎるなら、他の部分は影になって見えなくなってしまう。見えなくなることをリテラシーと呼ぶことはできないだろう。


今回の事例にもこの指摘が当てはまるか否かについて、結論を出すには至らないのだが、上記Aの誤読、およびその誤読に基づいた以下の発言、

おそらく彼は絶対に、在日朝鮮人に関係のあることしか書かなかった。なぜなら冒頭に書いたように、最初彼は「在日『差別』」と関連させて書いていたからだ。

を読む限り、町山の発言→朝鮮人差別、と「脊椎反射」的に受容した可能性は少なくないと思う。
浮雲氏の名誉のためにいえば、氏は〔浮雲2/26〕本文で朝鮮人差別についての強い関心と問題意識を言明している。その氏にしてこういう誤読がなされるのである。(もちろん、浮雲氏の言説の問題点がすべてこの1点で説明できるわけではない)

そして浮雲氏よりももっと露骨な脊椎反射的反応(仮に「町山テキスト誤読症候群」と呼ぶ)は、ネット上で広範に存在することは言うまでもない。


おそらく次回に続く。
また、〔浮雲2/26〕コメント欄で若干の議論が進行中で、私も意見を述べています。
そこから論点を持ち帰る可能性もあります。