システム的解決法と人格的解決法をめぐる議論の小まとめ…「ホテル・ルワンダ」パンフ論争、「最後の2行」をめぐって(1)

町山氏の「彼でなければダメだった−テリー・ジョージ監督の賭けに見事に応えたドン・チードル」の最後の2行に関して、deadletter氏、swan_slab氏ほかの議論を、システム的解決法と人格的解決法をめぐる議論を中心にまとめてみる。



まず、deadletter氏のエントリ「ホテル・ルワンダ」より。
http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000136.html

主人公のポールは自分と自分の家族を最優先に守ろうとしながらも、やはり最終的にはそのエゴを超えたところにたどり着く。彼は「悪しき因習」、傍目からは何の違いもないような人たちが相手を「ゴキブリ」と罵り・虐殺することに麻痺していく大きな流れ、そのことにプロテストする。そこにはやはり普遍的な倫理があったと思う。

ちなみに僕は、虐殺を止める為に個人個人の倫理に賭けようとする町山説も否定しようとは思わないが、やはり理性的なメディアが介在した民主主義体制の成熟がまず必要なのではないかと思った。どんな社会でも市民の声が感情に流されることはあるだろう。そこに理性の力で棹を差し、「逆バネ」を効かせる内在的な力が存在すること、それを「民主主義的成熟」と呼ぶならそれこそが、まさにあの時のルワンダに欠けていたものだったのではないか、と思う。



続いて、swan_slab氏の「「ホテル・ルワンダ」を観て」」より。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060308/p1

虐殺の原点は、野蛮な心性であるとか狂気であるとかいうよりもまず、植民地時代に作り上げられた分断統治に適合的なアーキテクチャーによって、その国の人々の内面に規範化された文化的なコードであった、ということにため息をつかずにはいられなかった。
つまり、ベルギーの統治のシナリオにすでに同質の人々がお互いを敵としていがみ合うシーンがすでに構想されていた。支配層のベルギーは徹底的にルワンダに人種差別を叩きこんでいったのだ。

それは、もちろん、宗主国を唯一の敵として国民を団結させないための戦略であったはずだが、ルワンダにとって、より不幸だのは、宗主国からの独立と民主化が、実のところ、民主主義をもたらさなかったことである。その結果、そうした統治の構造は次の統治者に無自覚に引き継がれ、利用されていく。ここに不幸があった。

そして、オリバー大佐が苦渋に満ちた表情で「俺に唾を吐け」と述べるシーンに関して、swan_slab氏はこう述べる。

自らの命の危険にも関わらず、避難民をホテルにかくまってきた支配人が最後の頼みの綱として期待していた、国際社会の介入は、無残にも裏切られた。
のみならず、彼は思い知ったはずである。
白人の支配と被支配の構造が過去のものではないことを。
ルワンダ一流のホテルを任されている彼は、ビジネスのセンスもあり、相当にソフィスティケートされた人物であったが、彼は、衝撃的な国連撤退の知らせに、いい気になって支配階級の真似をしていた自分自身を恥じた。(3/11加筆)彼は宗主国の間接統治に適合的な”宗主国に好意的なエリート層”を演じていたことに気がついたのだ。

彼が真の意味で、”支配人”としてのパーソナリティを自覚するのは、この瞬間からだ、と私は思った。
ホテルの安全も全く保障されたものではない、極度の不安に怯える従業員たちは集まって、ツチ族抹殺を呼びかけるラジオに黙って耳を傾けていた。
それをみた支配人のポールは、ラジオを消してしまう。
彼が拒否したのは、多数派の声であり、ラジオを消す行為によって伝えたかったのは、それに抗う正義であった。

ここに、この映画のエッセンスがある。

関連して、ポールの行為について、hokusyu氏の発言。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/comment?date=20060305#c

ポールさんの行為は直接虐殺を止めることにはならなかったけど、しかしなお彼の行動には意味があり、彼のようになろうとすることにも意味がある。

これらの人の意見に共通なのは、「システム的解決(民主主義体制の確立/成熟など)」と「個人の倫理」を排他的に考えてはいないということだろう。優先順位については議論がある。しかし、どちらかがどちらかを損なうというような見解には立っていない。

swan_slab氏のエントリに戻る。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060308/p1

さて、映画館を出た私が、電車のなかで考えていたのは、例の町山氏のパンフの結語だった。
上記のようなコンテクスト、アーキテクチャに規制された人々の感受性、あるいは私が感じ取った映画がヨーロッパ人に当てたメッセージ性を考えれば、関東大震災における朝鮮人虐殺には、確かに俄かにはつながらない。
しかし、それは遠くのものに焦点をあわせたから、近くのものに焦点があわなくなったからにすぎない。
虐殺のトリガーとなった状況は、差別構造に加えて、絶望的なまでの情報の欠乏であった。情報の欠乏は人々を不安に落としいれ、負のスパイラルを促進する。

「この人なら知っています。沖縄の人だ」
http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20060307#p1
において、記述された関東大震災における”人々の不安”は、これをそのまま、映画のなかでの、ナタを手にしたルワンダ人におきかえたとしても、それほど違和感がないほどに、類似した感情に支配されているように思えた。

ここで引用されている「この人なら知っています。沖縄の人だ」http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20060307#p1については、ここで深く触れることはしないが、「ホテル/ルワンダ」のある深度に焦点を当てればルワンダダルフールと重なって映るだろうし、別の深度に焦点を当てればルワンダ関東大震災の虐殺とも重なって映るだろう、ということをswan_slab氏は述べていると思う。

続いて、コメント欄におけるswan_slab氏の発言。ここには「システム的解決」と「個人の倫理」について、より踏み込んだ推論が出されている。
http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20060308/p1

ホテル・ルワンダの希望は、やはり主人公ポールが倫理的な態度をとりえたことです。これは個々人の倫理が世界を救えるはずがないとかそういう議論の文脈ではなくて、彼のような感情こそが人々の間で伝えられ、それが共有されるべきだという意味で、それを人々に知らしめるメディアがあり、コミュニケーション空間があればホテルの従業員が彼を信頼しえたように、人々の選好を動員する一歩になりうるかもしれない。

この点について、「電網山賊」のpavlusha氏は「システム的解決」の重要性に留意しつつ、より明確に述べる。
http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20060309#p1

実際にはそういうシステム改良が間に合わないうちに身の回りで何かしら(小さなことが)発生することもあるだろうし、また「あれ、このシステム変じゃない?」ということに気づいてシステム改良を促す契機は、システムそのものの内部論理からはたぶん生まれにくい。そういう意味では、個人レベルの倫理とか「ポールさんになる」「田中正造になる」「ヒビキさんになる」みたいな人格モデル的契機がまったく不要ということは無い。

システム的解決法が理論やモデルの設計・構築に当たるなら、人格的解決法はその理論やモデルに対する検証や反証の手続き、または理論やモデルそのものを作ろう(または適用しよう)と意欲するための契機に当たる。どちらにもそれぞれ重要な機能があり、どちらか一方だけあれば足りるというものではない。


これに触発される形で、deadletter氏は「ミクロとマクロ」でこう述べる。
http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000137.html

前回僕は不用意にも「まずは」民主主義的な社会、逆バネの効く社会が構築されることが肝心、などと書いてしまったが、やっぱりシステムを構築するのって結局ミクロなパトスの下支えがあってだよなあ、とも思う。

「ポールさんになったところで何も変わらない」とか「差別と区別の違いは曖昧」とか賢しらなシニシズムに戯れているだけで、個々の実践には一向に背を向けている人間が大半を占める社会で、どうして虐殺の芽を勝手に事前に摘んでくれるような都合のいいシステムが出来るのか、ということですね。

3人の見解に共通するのは「システム的解決」の契機、あるいは下支えとして「ポールさんになる」「田中正造になる」のような人格モデル的契機はむしろ有益だということだ。もちろん、「ポールさんになる」が極論に至ってpavlusha氏の言う「ポール脳」になってしまえば問題になるだろうが、実際にはそのような「ポール脳」的な発言をしている人は、(町山氏を含めて)誰も見当たらなかったわけだ。



以下メモ
次エントリーの予告めいた話題だが、日本社会において「システム」は「ミクロのパトス」の下支えを必要としないほど十分に機能しているのか、という点は、一考の余地がある。

http://d.hatena.ne.jp/kechack/20060307/p1の指摘は興味深い。

なぜ大震災時に虐殺が起きたか、今のネット言論は日本の歴史的恥部を無視することを善しとし、少しでも触れるだけで「サヨク」のレッテルを貼られる為、余り触れられることはないが、これは一種の安全マキャベリズムであったと思う。デマを流布した人には朝鮮人への憎悪があった可能性が高いが、それを信じて自警団を結成して虐殺に加担した人は、安全マキャベリズムに駆られ理性を失ったのであろう。
 この安全マキャベリズムが厄介なのは、民族というカテゴリー以外でも起こりうる訳で、厄介なのは戦争や震災などの混乱でなくても、日常生活で起こりうることだ。特に「子どもの安全」という話になると、かなりリベラルな人間でも強行保守派に変質してしまう。
 街に監視カメラを付けろとか、近くに養護学校が出来ると聞くと反対運動を起こす。自分の子どものことになると。1%でもリスクが高まることに反対し、1%でも安全が担保されることは支持するのである。
 もちろん、この行動は一方的には非難できない。人間の生命はどんな崇高な理念より勝るものであり、人間は生命に関して常にマキャベリストなのであるから。
 関東大震災に於いては、朝鮮人を殺すことで1%でも自分たちの安全が担保されると信じた人間が虐殺をしたのである。現在でも「殺せ」という極論は起きなくても*1、「在日朝鮮人を収容所に送れ*2」とか「ヲタクは犯罪予備軍だから収容所に送れ」といった予防拘禁を支持するような世論は容易に勃発し得る訳である。安全マキャベリズムが極限に達した状況においては1%でもリスクの高い集団*3が存在すえば排除の対象となり得るのである。