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sleepless_night氏の「性・宗教・メディア・倫理」のエントリー
殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド

一部を引用しますが。「チーズサンド」が何の比喩であるかを含めて、リンク先を読まれることをおすすめします。

ジェノサイドの矮小化のリスクを持ちながら、映画が一人の男性に焦点を絞ったのは、それを体験したことのない人間にとっては“チーズサンド”の粋を越す想像を不可能にさせる次元の出来事に、想像を動機付け、ジェノサイドを育成した無関心を放置することを止めることを訴える、唯一の可能性だったからだと私は感じます。

ジェノサイドは“チーズサンド”の粋でしか想像できなくとも、それを投げつけたい、“チーズサンド”のままであっても無視して、気づかないでいようとする人間に“チーズサンド”を投げつけて“チーズサンド”があることの認知を持たせたい、投げつけられて“チーズサンド”が落ちても“チーズサンド”のまま、落ちた地面は、殺人の誘惑という私たちの実際的な想像可能性の側。それでも、投げつけたい、投げつけて“チーズサンド”と投げつけられた自分という存在を意識させたいという使命感に近い欲求が町山智浩さんの最後の一行から感じられます。

誘惑の側の地面とその上に情熱の側からの“チーズサンド”。
 見えるのはポール・ルセサバギナという一人の人間が情熱に乗らなかったこと。見ているのは誘惑の側に立つ自分。
 “「わたしはずっといい続けた。『あなたのやっていることには同意できない』今こうやってあなたに話しているのと同じくらいはっきり。そうしなければならないと思ったら『ノー』と言う人間だった。わたしがしたのはそれだけだ、したと思えることは。わたしはどうしても殺人者たちに同意できなかった。どうしてもだめだった。わたしは拒否した。だからそう言ったんだ。」”(『ジェノサイドの丘』より)
 誘惑の地面を見ながらその言葉を聞く。
 私は言えない。人を殺せる可能性よりも、確実に低いように感じます。
“「この人なら知ってます。沖縄の人だ」”
           (http://d.hatena.ne.jp/fenestrae/20060307#p1より)
 までなら言える、言いえる自分でありたいと願っています