知ったかぶりなのか思い込みなのか「煙」を遠隔監視しているのか
念のために前提を確認。apeman氏の言葉を流用。
町山擁護派の主張は“あの一文は『ホテル・ルワンダ』という映画の、特にキャスティングに込められた監督の目論見の解説としては十分正当化される”というものなのであって、『ホテル・ルワンダ』という映画全体があの視点からのみ語り尽くせるとか、ましてやルワンダ虐殺という事件が「ポールさんのようにならねば」という観点からのみ理解可能であるなどと言うものではない。
さて、浮雲氏のエントリで、私が批判されている箇所がある。一応レスする。
http://naruse.exblog.jp/d2006-03-05
まずこれは町山氏への批判と思われるのだが、
「あなたはそこで救えるか」と言いつつ、「あなたは加害者になり得るものだ」と問う。
そうではなく、「どう救うか」が次にくるべき言葉だ。
映画のパンフレットならばそれでもいいかもしれないが、現実には前者では違うところに迷い込む。
浮雲氏は、『町山氏が「あなたはそこで救えるか」と言いつつ、「あなたは加害者になり得るものだ」と問うている』と決めつけているが、実際の町山氏の問いは以下のようなものだった。
ポールを観客に近い人物として描くことで、『ホテル・ルワンダ』は「彼だって戦えたのだからあなたにもできるはず」と、観客を励ますと共に、逃げ場をなくす厳しい映画になった。ポール・ルセサバギナ氏は『ホテル・ルワンダ』の米版DVD収録のコメントでこう問いかけている。
「ルワンダと同じような状況になったとき、あなたは隣人を守れますか?」
日本でも関東大震災の朝鮮人虐殺からまだ百年経っていないのだ。
町山氏の発言は、「あなたは加害者になり得るものだ」と問うていると解釈できるものだが、しかし「どう救うか」という問いを積極的に排斥しているわけでない
電網山賊のpavlusha氏はこう述べている。
(ただ、私の読んだ印象としては、元の文章は単に人格的解決法をもっぱら主題的に取り上げているだけであって、別にシステム的解決法を積極的に捨象しているようには見えないけど……)
したがって町山氏の発言は、「あなたはそこで救えるか」と「どう救うか」の間に、「あなたは加害者になり得るものだ」ということに留意を促したにすぎない、と私は思うのだが、この留意を促すことをもって、「どう救うかという問いを排斥している」と解釈する人たちがいる。hasenka氏しかり、浮雲氏しかり。
繰り返すが、それは過剰反応、または意図的な曲解だと思う。
さて、次は「煙」へ向けた言葉のようだ。
では聞くが、あなたは「どう救う」のか。彼らを今どうやって救えるだろう。
単純に、それは私の許容を超えている。言及すら偽善でしかない。
あなたがするべきは、そこに切り刻まれる事だ。自分が何をできる者でもないと知る事だ。人の言葉に、いらぬ「意味」を読み取る暇があるなら、あなたはあなたのいる場所で、「他者の方」でなく、前を向くべきである。
浮雲氏は、「煙」に対し「あなたがするべきは、そこに切り刻まれる事だ。自分が何をできる者でもないと知る事だ」「あなたはあなたのいる場所で、「他者の方」でなく、前を向くべき」と「べき論」を述べているが、どうして他人にいきなりそういう説教を始めるのか?
それは、「煙」はそこに切り刻まれたり。自分が何をできる者でもないと自覚していない、という認識を前提としているのだろう(そうでなければ「するべきは…」という発言はでてこない)。しかし、その認識に根拠はあるのか?
少なくとも「煙」はプライバシーを公開していない。また「煙」はブログに活動の軸足をおいていない。軸足は本名での活動にある。浮雲氏は、「煙」の内面について理解する材料を得ていない。
それでも知ったかぶりや思い込みで語りたいのならご自由に、というしかないのだが。