どこが「あべこべ」なのやら

http://d.hatena.ne.jp/myhoney0079/20060530/p2#c1149264402http://d.hatena.ne.jp/myhoney0079/20060602/p6での議論。

青狐氏のhttp://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20050309における「熊本兵団戦史」の引用に対して野良猫氏が噛み付いて、十条氏が青狐氏の擁護に回っている。

野良猫氏はこう批判する。

「熊本兵団戦記」のような当時の軍隊経験者の記録を、あべこべに印象捜査したりするのはやめてほしい。データは性格に蓄積されなければならない。

野良猫さんによれば、「熊本兵団戦史」は虐殺否定派の立場にたつ記録なのに、青狐氏が「あべこべに印象操作」したということらしい。

しかし、あべこべに印象操作されていると批判された青狐氏の引用箇所はこれ。

「熊本兵団戦史」(熊本日日新聞社)より
 それではわが郷土の第六師団はこの南京事件にどんな役割を果たしたのだろうか。
 中国側軍事裁判の資料によれば虐殺された者は四十三万人、うち第六師団によると推定される者二十三万人。第十六師団十四万人、その他六万人という数字をあげている。
 しかし実際には前述のように四十三万人の中には正規の戦闘行為による戦死者が大部分を占めていると推定される。もし戦闘行為を含むものであれば、第六師団は中国軍にとって最大の加害者であることに間違いはない。北支の戦場において、また直前の湖東会戦において、熊本兵団が敵に加えた打撃はきわめて大で、余山鎮、三家村付近だけでも死屍るいるいの損害を与えていた。
 のみならず南京攻略戦では南京城西側・長江河岸間は敵の退路に当たり、敗兵と難民がごっちゃになって第六師団の眼前を壊走した。師団の歩砲兵は任務上当然追撃の銃砲弾を浴びせ、このため一帯の沼沢は死屍で埋められたという。
 これは明らかに正規の戦闘行為によるものである。にもかかわらず中国側は虐殺として取り扱っている。
(「熊本師団戦史」P128〜P129)


どうみても虐殺否定派だとわかるように引用されていると思うが。
「あべこべ」という言葉の定義が違うのかな。

青狐氏は今後ネガティブな嫌がらせを受ける可能性が高くなると思うのだが、挑発にのらずにがんばってほしい。

誰かこの人に辞書の読み方を教えてあげて

http://d.hatena.ne.jp/bluefox014/20060531/p1経由

http://adon-k.seesaa.net/article/18421170.html?reload=2006-05-31T14:58:45

>「南京大虐殺」という言葉自体には、30万人虐殺という意味は含まれていません。
 ???
含まれてますよ?

日中戦争さなかの1937年(昭和12)12月から翌年1月にかけて、南京を占領した日本軍が中国人に対して行なった大規模な暴行略奪虐殺事件。このとき”殺された”中国人の数は、極東軍事裁判では二〇万人以上、中国側の発表では三〇〜四〇万人とされる。
http://dictionary.goo.ne.jp/search.php?MT=%C6%EE%B5%FE%C2%E7%B5%D4%BB%A6&kind=jn

こんにちは。
ADON-Kさんは辞書の読み方を知らないのですか?

大辞林」に載っている【南京大虐殺】の意味・定義は「 日中戦争さなかの1937年(昭和12)12月から翌年1月にかけて、南京を占領した日本軍が中国人に対して行なった大規模な暴行略奪虐殺事件」。

青狐氏のいうとおり「大規模な」暴行略奪虐殺事件という意味のようです。そして、「このとき」以降の文は、数についての複数の「説」を紹介した「補足説明」。

大辞林」以外の辞書も見てごらんなさい。「30万」という補足説明もないものが多いから。

Posted by 煙 at 2006年05月31日 14:58

はいはいわろすわろす


http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20060502#p1経由で知ったuumin3氏の発言について。

法律がそこに書き込まれたからと言ってそれだけで従わせるのは本当は無理なのです。罰則等の強制力がなければ、単に法律は空文化するだけでしょう。
 ですから、結局今度の改正にしても「お題目が変わる」だけではないかと、そういうシニカルな見方もできるわけです。
 いま一度この改正案の全文を読まれて、本当にこの文言に替わるだけで子供たちの未来や教育の現状が悪くなると判断できるものか、冷静に一人一人が考える時ではないかと愚考します。

uumin3氏は「基本法」が省令などの根拠になるということを知らないのか。基本法の改正が大きなインパクトを与えた例は、近年でも河川法などがあるが。

「冷静に一人一人が考える時ではないか」? いま改正(改悪)反対を述べている人の多くは「基本法」について理解していていて、それを理解できていないuumin3氏が御高説垂れているだけではないかと、「愚考」した。

Soreda氏のオウンゴール?

ひさしぶりの更新。

gachapinfanさん経由で、小沢一郎の「東条ほかの戦争指導部は靖国に祭られる資格がない」という主張に対してのSoreda氏の反論を読んでみたが、
くだらない理屈をこねまわしているだけだと思う。

http://d.hatena.ne.jp/Soreda/20060410

今20歳の人にしてみれば、それは既に3代ぐらい前の過去の話で、死んでしまった指導者を今でも俺を苦しめるやつと見なすことはもう難しいのだ。

死んでしまった指導者を「今でも俺を苦しめるやつと見なすことはもう難しい」のなら、同様に「3代前の霊を顕彰すること」も「もう難しい」ということにはならないのだろうか。
つまり「時間が風化させているよ」的ロジックを持ち出した時点で、「20歳の人」が靖国の霊を顕彰する根拠も失われるはずで、これは靖国支持派にとっては「オウンゴール」に等しい発言だと思う。

まあ、党派的に理屈をこねまわした結果だとは思うが…

「我が子をアウシュビッツに…誰が?」という問題について(論点整理以前)


gachapinfan氏による整理をそのまま借りつつ、「我が子をアウシュビッツに…誰が?」という問題について考える。

まず、gachapinfanさんによる整理

http://d.hatena.ne.jp/gachapinfan/20060322#p1

finalventさんの主張
1. 関東大震災において「われわれ」が「朝鮮民族」に対するジェノサイドを行なった、という誤解が流布している。あるいは、流布する可能性がある。
2. そのような誤解が流布すれば、民族間の軋轢を高めることになる。
2.1. わが子がアウシュビッツ送りになるかもしれない。

3. 「われわれ」は集団ヒステリーで「異者」を殺しただけで、特定民族に対するエスニック・クレンジングをおこなったわけではない。
3.1. 民族の血を根絶やしにするという考えによるものではない。
3.2. 計画的におこなったわけではない。
3.3. 虐殺された者の人数も少ない。
3.4. 「われわれ」は朝鮮人だけを殺したわけではない。
 

2と2.1の間の溝…誰が?
・この2と2.1の間には溝がある。つまり、「誰」によって我が子がアウシュビッツ送りになるかもしれないとf氏は考えているのか?
・普通に考えたら、ジェノサイドされた側の民族が「我が子をアウシュビッツに送るかもしれない」と読解するのが自然だ。

・つまり2.1は「朝鮮人によってわが子がアウシュビッツ送りになるかもしれない」という意味にしか読み取れず、当然以下のような反応を招く。

http://d.hatena.ne.jp/NakanishiB/20060312/1142115440

NakanishiB
これってまさに大震災の虐殺における流言蜚語そのままじゃないですか。


・これに対しfinalvent氏は、一旦はこの問題をスルーした。
・しかしその後私のブクマコメントに反応してきた。

finalvent氏は(明言していないが)以下のように考えているようだ。
・現時点で「誰」かが存在することを前提に述べたわけではない、
・しかし現在「我が子をアウシュビッツ」に送る主体がいなくとも、2.1の可能性に備えるべきだ

不毛なレスポンス

しかし、私のコメントへのレスは説得力に乏しい。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20060318/1142654353

アウシュビッツユダヤ人にいわれなき偏見の歴史的蓄積から生まれた側面が大きい。あのころ彼らは国家を持たず、そうした偏見に十分に対応できなかった。対応できたら……いや現在の某団体活動を見ればわかるだろう。

読めばわかるとおり、これは偏見を持っていた主体に対する言及がない。
これでは2.1において「主体」の問題は不問である、という根拠にはならない。

私にこの点で誤りがあるとすれば、関東大震災における朝鮮人虐殺が genecide であると史的に妥当に解明された時だ。その時を待たずして、史実を見つめようとせず、関東大震災における朝鮮人虐殺が日本人による genecide なのだと言われれば、私は看過すべきではないし、看過すべきでない懸念の理由は、すでに述べたとおりだ。「誰が」を生まないための話だ。

これも2.1において「主体」の問題は不問である、という根拠にはならない。
ちなみにgachapinfan氏は、「ジェノサイドであっても単なる虐殺であってもいずれにせよ軋轢の原因にはなる」と述べている。

そういえば、この手の詰問は懐かしい。日本の防衛というとき、誰が攻めてくるというのかとマジで問われていた時代があった。今の人はあの時代の空気を知らないかもしれない。防衛というのは、誰がどの国がという問題ではない、というのは今では普通の常識になった。

これも2.1において「主体」の問題は不問である、という根拠にはならない。
その「時代」においても、以下のような条件が存在していたはずだ。
・冷戦状況
・日本以外の国が軍隊を持っている

つまりその「時代」には、軍事的に侵攻されるかもしれないという「緊張関係」が(強弱はともあれ)存在し、侵攻してくる力を持った主体をカウントすることができた。この両者の条件から、侵攻してくるかもしれない「候補」を数カ国(10か国以下だろう)カウントすることができた。
つまり侵攻の可能性がある主体が多少とも「実在」することを前提に「防衛」、つまり軍事侵攻への備えが議論されているわけだ。

それに倣えば、2.1においても「我が子をジェノサイドする」可能性のある主体が多少とも「実在」することを前提にしか、「ジェノサイドされないような備え」の議論は成り立たない。

どこに「関東大震災の虐殺」をネタにする国や民族がいるの?

・では、「ジェノサイド」されるかもしれないという「緊張関係」は存在するのか、「ジェノサイド」してくるかもしれない「候補」はカウントできるのか。
・さらに、仮に「候補」が存在するとして、その主体が「関東大震災」を「ネタ」にジェノサイドするか、と真面目に考えてみるといい。
・どう考えても、「大東亜戦争」の被害国/民族は大東亜戦争の加害行為をネタに、「植民地統治」の被害国/民族は植民地統治をネタにするだろう(単純に規模が違うからだ)

「ジェノサイドされない」ための措置としては、ほとんど意味がない

・こう考えると、「関東大震災虐殺事件について安易なことを言わないほうがいい」は、「ジェノサイドされないための備え」としてはほとんど効果をもたらない提言である。限りなく無駄な提言である。
・それ以前に、「finalventさんはこれまでの歴史研究の蓄積を知らずに「歴史検証を」と唱えているのではないか、というhokusyuさんほかの疑念」を私も抱く。
むしろ危険である

・むしろこの発言は、「わが子がアウシュビッツ送りになるかもしれない」という不安や恐怖を徒に煽るという意味で危険である。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060318#p1

hokusyu
「虐殺を引き起こさないために」「我々」は「彼ら」に心を許してはならないラインがあるのだという発想は、容易に「この世から一つの民族が一人残らずいなくなって欲しいという願い」とリンクしかねない。

massacreとgenocideの間にどれくらいの距離がある?(本日読んだエントリー)

先日のエントリーで、以下の論点を示した。

論点4:massacreとgenocideを区別したとして、それで?

Dryad

『横から失礼します。finalventさんは「massacreとgenocideの違い」に拘っているのではないか、という話が出ていますが、それを阻止するために取られるべき対策(システム的あるいは個人道徳的)にどのくらい違いがあるものなんでしょうか?

http://d.hatena.ne.jp/travieso/20060318/p1

この問題意識の延長上で、sleepless_night氏の「隔たり」というエントリーを読んだ。
http://may13th.exblog.jp/2843908

これは、先日拙ブログで紹介した「殺人の誘惑と情熱の間 投げつけられたチーズサンド」の続編である。
http://may13th.exblog.jp/2830934

ちなみに、氏のいう「殺人の誘惑」はmassacre、「殺人の情熱」はgenocideに符合するだろう。



「隔たり]の冒頭部分より。

では、私たちは、私はジェノサイドを実現することは出来ないのか?する可能性はないのか?
 誘惑と情熱の間には質的な差異が存在し、私たちの立つ地面が情熱の殺人の歴史を持たないとして、私たちに(私に)情熱の地へと跳躍する可能性はないのか?(※)
 誘惑と情熱の間には、跳躍できない程の距離が存在するのか?


結論の部分より。

 “権力を枯渇”するパーソナリティが、パーソナリティの座を役割に明け渡す。
 役割にパーソナリティを奪われてしまえば、その人を憎む必要すらなく、“奴ら”を憎めればよい。

 誘惑と情熱の間には、確かに質的な差異が存在する。
 しかし、それは一跨ぎできる距離でしかないのでしょう。 

 その程度の距離が、体験した者としていない者との間に実際的な想像を阻む。
 その程度の距離しかないから、私は、私たちは想像し得ないものを想像することを避けてはならない、と思えます。


ここで目に留まったのは、「役割にパーソナリティを奪われてしまえば、その人を憎む必要すらなく、“奴ら”を憎めればよい。」という言葉だった。
これはhokusyu氏の以下の発言と相通ずるのではないだろうか。

「虐殺を引き起こさない/止めるシステム」を考えることは必要。しかし、それ以前に、我々が「個人」であることが重要なのではないか。

「虐殺を引き起こさないために」「我々」は「彼ら」に心を許してはならないラインがあるのだという発想は、容易に「この世から一つの民族が一人残らずいなくなって欲しいという願い」とリンクしかねない。