finalvent氏の一連の主張について(箇条書きバージョン1)

ルワンダ虐殺と関東大震災朝鮮人虐殺とは異なる」において

・まず、「ルワンダ虐殺と関東大震災の朝鮮人虐殺とは異なる 」においてfinalvent氏は、町山氏がパンフの文章の末尾に関東大震災の事件を持ち出すことに疑問を投げかける。

関東大震災の事件はルワンダ虐殺ほど酷い事件ではなく、異なるという。

・しかし再びK_NATSUBA氏の言葉を借りると「ルワンダと同じような状況になったとき」、つまり自分が所属する集団が虐殺加害者になった時、「あなたは隣人を守れますか?」虐殺被害者を庇えるか、というのがポールさんの問いなのだから、規模や程度に差があっても「ポールさんのようになれるか」という命題において関東大震災の事件を想起させることは特に問題ないと私は考える。

・それに対し、日本はルワンダのような酷い虐殺は起こしていない以上、普遍的な「宗教的戒律」のような命題を突きつけられて、「それにただ頷くことは盲信と異なることはない」とfinalvent氏は述べる。

・つまりここにあるのは「ポールさんのようになること」という命題の無効化である。

・どうやら日本人は「そういう普遍的な命題」の突きつけから免れている、という認識のようだが、他国からの出稼ぎ労働者が増えている先進国で日本「だけ」がその命題から免れると、本気で思っているのだろうか。

「では問うが」において

・その翌日のエントリー「では問うが」を読む限りではfinalvent氏は、「ポールさんのようになれるか」という問いにおいて、関東大震災の事件の話題を持ち出すことに害があると考えているようだ。

finalvent氏はこう述べる。

私は、この虐殺は恥ずべき事だが偶発的なものであると思う。それ以上に祖父母・曾祖父母の罪を暴くべき対象ではないと信じる。

・しかし「ポールさんのようになれるか」という問いは、偶発的に起こった局面では無意味化する命題ではなく、偶発的だろうとなかろうと同じように重要なのだから、偶発性を強調8することにあまり意味はないと思う。

finalvent氏はこう述べる。 

でなければ、日本民族朝鮮民族を下層階級に押し込め6000人も虐殺する民族であると朝鮮民族に記憶される。そういう民族間の歴史を刻むことになる。

私は、それを避けるべきだと思う。
しかし、それが事実ならそれはそれだ。その事実に向き合わなくてはならない。
そうなのか?

しかし疑問なのだが、町山氏は「日本民族朝鮮民族を下層階級に押し込め6000人も虐殺する民族」とは述べていないし、別に誰もここで「関東大震災の虐殺規模論争」など行っていない。それに仮に6000人が600人であろうとも「ポールさんのようになれるか」という命題の前では大きな差異はないのではないだろうか。

ここでfinalvent氏は「関東大震災虐殺事件」の話題を出すことのもたらす弊害を語っているが、単に誰も言っていないことを先走りして批判しているだけである。


ダルフール危機の制止ができずにルワンダの悲劇を学んだことになるのか」において

次に氏は、同日の「ダルフール危機の制止ができずにルワンダの悲劇を学んだことになるのか」においてこう述べる。

個々人の倫理を問うことで、ダルフール危機(ジェノサイド)は制止できるとでも思っているのか。

誰も言っていないことに疑問を挟みだしている。
再びhokusyuさんの発言を引用すると、

そも、ひとりひとりの心構え「だけ」で虐殺は止まるとか、「心の問題」を語れれば余は満足じゃとか、誰も言ってなかったと思うのですが。ポールさんの行為は直接虐殺を止めることにはならなかったけど、しかしなお彼の行動には意味があり、彼のようになろうとすることにも意味がある。

みんな心の問題しか話してないけど、今現実に起こっている虐殺について考えてみることも必要だよねと言われたら、うんそうだよねと返すしかないわけですが、そのときに心の問題の議論を無意味だと言う必要もないし、虐殺事件を相対化することによって事件そのものへの寄り添いを排除・抑圧する必要はないと思います。

そもそも、finalvent氏の議論は相対化がまずあって、ダルフールの話はそれ以後に出されたものであるという事実は重要かと。


・つまりダルフール危機という現実は、「ポールさんのようになる」という命題を無効化しないし、その逆でもない。

・ここまでくると、finalvent氏は「ポールさんのようになる」という命題を無効化することを目的化するために、あちこちから論拠を引っ張っているだけと思える。しかも先走りしたり、誰もいっていないことに異議を唱えたり‥

「洒落のわからんやつ」において

finalvent氏は6日付の「洒落のわからんやつ」において以下のように述べているが、

日本人が加害か被害かが隠された問題ではないのかと疑念を抱いた上での洒落だ。


・しかし、すでに引用したK_NATSUBAさんの認識どおり、「ポールさんのようになる」という命題は

ルワンダと同じような状況になったとき」、つまり自分が所属する集団が虐殺加害者になった時、「あなたは隣人を守れますか?」虐殺被害者を庇えるか、というのがポールさんの問いなのだから
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060306

である以上、別に「隠されて」などいない。「ポールさんのようになる」という命題とはそぐわないだけだ。

・ここに至っては、あちこちから思いつきを寄せ集めているだけで、全体としてはちぐはぐで何の一貫性も感じられない。ただ「ポールさんのようになる」という命題をスポイルさせようとして手当て次第に石つぶてを投げているような様にしか見えない。

再び「ルワンダ虐殺と関東大震災朝鮮人虐殺とは異なる」において

finalvent氏は山本七平の言葉を引用する。

朝鮮戦争は、日本の資本家が(もけるため)たくらんだものである」と平気で言う進歩的日本人がいる。ああ何と無神経な人よ。そして世間知らずのお坊ちゃんよ。「日本人もそれを認めている」となったら一体どうなるのだ。その言葉が、あなたの子をアウシュビッツに送らないと誰が保証してくれよう。

・これを引用した根拠を類推すると、関東大震災の虐殺事件を(お坊ちゃん的に?)肯定することで、結果として「我が子がアウシュビッツに送られる」事態を促しかねないということだろうか。

・しかしこれは、「アウシュビッツ」に「我が子」を送るという「他者」の存在を前提にしか成り立たない発言ではないのか。
これは、ただの過剰な他者恐怖ではないのか。


追加・おそらくこのあたりにfinalvent氏の問題意識の核心がある。要は、町山氏の文章は「利敵行為」、あるいは利敵行為になりかねないのだ。「敵」がアウシュビッツに我が同朋を送ろうとしている。安易に頷くな、言質を与えてはいけない、ということだ。実に山本七平的である。

こういうスタンスについて、hokusyu氏は指摘する。

虐殺事件の要因の一つは、加害者集団が被害者集団に持つ恐怖であることは多く指摘されている。朝鮮人虐殺事件の記憶がゆえに虐殺されるかもしれない恐怖、というものは、むしろ虐殺を引き起こす心性に思えてならない。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060305#p2

・この指摘に留意すると、finalvent氏が思いつきで次々と石つぶてを投げている動機が見えてくる気がする。つまりfinalvent氏さんは、過剰な他者恐怖があり、虐殺されるかもしれない過剰な恐怖に怯えているのではないだろうか。

・過剰な他者恐怖が暴力を誘発する、という点は「ボウリング・フォー・コロンバイン」を想起させる。

・ともあれ、今の私には「ポールさんのようになる」という命題を無効化する根拠は、finalvent氏さんの発言の中にはひとつも見出せない。

・個人的には、「ポールさんのようになる」という命題がとりあえず最重要と考えているわけではない。deadletterさんの指摘が示唆に富むと思う。
http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000136.html

(バージョン1ここまで)