「ポールさんのようになる」という命題について(箇条書きバージョン1)

4月以降の準備で時間がだんだん無くなってきたので、箇条書き。
長文なので、8日付エントリにしました。
明日以降、しばらく更新できない可能性もあり。


・現在の議論は、パンフの文章「テリー・ジョージの‥」の最後の一文をめぐって行われている。

・町山氏のパンフ文章「テリー・ジョージの‥」の最後の部分は、「隣人を守れるか」言い換えれば「ポールさんのようになれるか」という命題である。
・これが、映画「ホテル・ルワンダ」の主題の一部であることは疑いない。


travieso氏も指摘するとおり、これはルワンダ虐殺の史実そのものより、「ホテル・ルワンダ」という作品のテーマにかかわる議論である。

・その命題に触れる際に「関東大震災」の事件に言及することへの是非が論点になっていると考える。

・日本人である町山氏が日本人に向けてその命題を発するとき、日本で起きた事件を想起させるのは、別に奇異でも何でもないと思う。

これについては、K_NATSUBAさんの以下の認識にほぼ同意する。

ルワンダと同じような状況になったとき」、つまり自分が所属する集団が虐殺加害者になった時、「あなたは隣人を守れますか?」虐殺被害者を庇えるか、というのがポールさんの問いなのだから、日本に即して言えば、当然日本人――というのは実はちとまずい。大和民族? うーん。――が加害者に回った事例を挙げなければならないわけで。
http://d.hatena.ne.jp/K_NATSUBA/20060306

・とりわけ、日本では定期的に大地震が起こるのだから、2006年の今も「ノーモア虐殺事件」「震災時になにかあったとき、私たちはポールさんになれるか」という問題意識を持つことが無意味だとは思えない。どれだけ強く心に留めるかは人それぞれだと思うが、少なくともその問いは無意味ではない。

・「ポールさんのようになれるか」という命題は、映画「ホテル・ルワンダ」の主題の「一部」であることは疑いなく、これは「ルワンダに寄り添う」ことや「ダルフールを憂う」ということを排他するものではない。

この点については、hokusyu氏が以下のように言及している。

ポールさんの行為は直接虐殺を止めることにはならなかったけど、しかしなお彼の行動には意味があり、彼のようになろうとすることにも意味がある。

みんな心の問題しか話してないけど、今現実に起こっている虐殺について考えてみることも必要だよねと言われたら、うんそうだよねと返すしかないわけですが、そのときに心の問題の議論を無意味だと言う必要もないし、虐殺事件を相対化することによって事件そのものへの寄り添いを排除・抑圧する必要はないと思います。
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/comment?date=20060305#c


・別にダルフールの現実があるから「ポールさんのようになる」という命題が無効になるわけでもないし、その逆でもない。少なくともパンフの文章において、町山氏は「ポールさんのようになる」という命題が他の命題に対し排他的になるような表現は行っていない。

・「ポールさんのようになる」という命題は、K_NATSUBA氏が言うとおり「自分が所属する集団が虐殺加害者になった時、「あなたは隣人を守れますか?」虐殺被害者を庇えるか」という命題なのだから、虐殺時に略奪を伴っていたかどうかは重要な論点にはならないだろう。

・虐殺時に略奪を伴っていないから「関東大震災の虐殺事件」とルワンダ虐殺は異なるというのは正しいが、「ポールさんのようになる」という命題においてはその差異は重要ではないはずだ。

・ちなみに、南京事件日本兵が略奪や強姦を行ったことは岡村大将の証言など日本軍側の史料等からも疑いないが、では南京事件を引き合いに出すのが相対的に適切か、というわけでもないだろう。南京事件に関与したのは兵士だけだが、関東大震災の事件に関与したのは主に民間人である。



関東大震災の虐殺事件の死者数は不明だが、それでも近代日本で起こった民間人による民間人虐殺の最大規模事例であることは疑いなく、「ポールさんのようになる」という命題において想起を要請することは奇異ではない。