通州事件で殺された人間は「隣人」だったのか?


ついでに、ブクマ欄でこういう発言をいただいたのだが、

『[ホテル・ルワンダ][町山智浩][朝鮮人大虐殺]「洒落という表現はともかく、シンボルなら虐殺のリプレースは世界のどんな事件でもいいのか、例えば通州事件でも(ノモンハン事件でもボスニアでも国民党の大虐殺でも)という氏の皮肉だよ。なぜ読みきれないかな。』

繰り返すが、私は皮肉と読まなかった。それははっきり「通州事件‥」を締めにしたい、と「選択」しており、「締めの部分、通州事件もありでは」ではなく、関東大震災の事件より通州事件がいい、という「比較の結果」を表明しているからだ。

これを「締めの部分、通州事件もありだよね」と解釈したり、さらに「なぜ読み切れないのかな」などと発言するのは、ずいぶん党派的な言動ではないかと思えるのだが、それ以前の問題として、コメントした人はこれが「皮肉」として成立しているつもりなのだろうか。

また繰り返すが、パンフの文章に照らしあわせる限り、これが「皮肉」として成り立つには、最低限「隣人が殺される」という条件が満たされる必要があるだろう。
では、通州事件で殺された日本人・朝鮮人は、通州の住民にとって「隣人」だったのか。

(3月7日10;30補足)別に「隣人」と判断してもいいのだが、1937年の通州の日本人がなにゆえ「隣人」と呼びうるのか、それを問うことなしに「隣人」とみなしていいのか、そしてそのうえで「通州事件」を「洒落」や「皮肉」のネタに用いることをどう考えるのか、という問題を提起したい。