勝手に非対称モデルを立てて論じられる「女性論」への違和感

Mr_Rancelot氏の■高学歴女性が低学歴男性と結婚をしたがらない理由という小論について。
長文なので前文引用は行わないが、

男の場合は結婚相手に所得があろうがなかろうが、家計の主要な稼ぎ手というポジションは変わらない。

どうしてこういうことを断定的に言ってしまうのか、理解に苦しむ。
「女性が家計の主要な稼ぎ手となり、男性がそのポジションをとらない」という可能性が、どうして予め排除されているのか。


と思って読んでいると、専業主夫モデルに言及されているのだが…

では、専業主夫モデルというか、夫が家庭に入って、妻が家計の主要な稼ぎ手となることを考えると、これもまた女性にとっては失うものが大きい。

家計の主要な担い手というポジションは結婚前と変化しないにしても、結婚によってその地位を離れられる可能性という選択の自由を失うからである。

それは仕事が自己実現や社会生活のために行うものではなく、ただ生活のためになさざるを得ないものという意味を強めることでもある。

結果として、高学歴女性が低学歴低収入男性と結婚しても得られるものよりも失うものの方が大きいのだ。

これがMr_Rancelot氏の考える「高学歴女性」が「低学歴男性と結婚をしたがらない理由」らしい。
いっぽう、Mr_Rancelot氏は「高学歴男性」が「低学歴女性と結婚をしたがらない理由」は希薄であるという旨を述べる。その論拠は以下のようなものだが(一部重複)

男の場合は結婚相手に所得があろうがなかろうが、家計の主要な稼ぎ手というポジションは変わらない。自分の収入で支出を賄う算段さえつけば、結婚相手の所得の有無、あるいは高低は本質的な問題とはならない。ケアワークの一任を条件として、扶養したとしても全体の損得勘定ではつじつまがあう。

従って、家事さえ務まれば、結婚相手である女性の学歴、所得にそれほど執着する必要がないから、高学歴高収入の男性が社会的地位では釣り合わない女性と結婚することも珍しくはない。

この2つ、「高学歴女性」と「高学歴男性」への言及を対比すると、この論の奇異さが浮かび上がる。

「家計の主要な担い手というポジションは結婚前と変化しないにしても、結婚によってその地位を離れられる可能性という選択の自由を失うからである。」→(Mr_Rancelot氏説においては)女性にだけ当てはまり、男性には当てはまらない、とされる

「それは仕事が自己実現や社会生活のために行うものではなく、ただ生活のためになさざるを得ないものという意味を強めることでもある。」→(Mr_Rancelot氏説においては)女性にだけ当てはまり、男性には当てはまらない、とされる

しかし、これはMr_Rancelot氏の勝手な決め付けである。「仕事が…ただ生活のためになさざるを得ないものという意味を強める」という傾向は、男性にも同程度に当てはまるわけで、女性にだけ当てはまるというのはMr_Rancelot氏の勝手な決め付けにすぎない。

男性だろうと女性だろうと、結婚によって「仕事が…ただ生活のためになさざるを得ないものという意味を強める」ことに変わりない。(もちろん、男性だろうと女性だろうと「自己実現や社会生活のために行う」ものと考えマイナス負荷と考えない人もいる)

結局、一般論として語るなら「高学歴高収入の男性が社会的地位では釣り合わない女性と結婚することも珍しくはない」ならば同様に「高学歴高収入の女性が社会的地位では釣り合わない男性と結婚することも珍しくはない」というなるはずだ。

私はMr_Rancelot氏の論に強い違和感を持った。
もし私が誤読している部分があったら指摘をお願いしたい。