どうして通州事件なら構わないのか

ようやく、元テキストを読んだうえでの議論ができるようにになった。
そのうえで、最初に私の立場を表明しておくと、町山氏の「彼でなければダメだった テリー・ジョージ監督の賭けに見事に応えたドン・チードル」の最終部、「隣人を守れるか」という命題は「ホテル・ルワンダ」の主題の一部をなすこともので、町山氏が勝手に作り上げたものでないことは疑いないと考える。
そのうえで最後の一行については「あってもいいんじゃない」程度の感慨で、特にこの主張を支持するというほどのものではない。この意味で私は木走氏の立場に近い。したがって、町山氏のテキストに違和感を持つ人がいても不思議はないと思うし、そのことを否定したりはしない。

しかし、finalvent氏のエントリ
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/comment?date=20060304§ion=1141473634#c
には正直驚いたし、さらにそれまで「違和感」の表明にとどまっていたBigBangさんのような人が、それを「決定稿」と評してしまうのには目を疑ってしまう。
なんか議論がおかしな感じに動いている。

何と言ってもfinalventさんは文中で「アウシュビッツ」をアナロジーに使い、ブクマでは

締めは、「中国でも通州事件の日本人虐殺からまだ百年経っていないのだ。」としたいところ

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://d.hatena.ne.jp/kemu-ri/20060304/1141410831

と述べているのにもかかわらず、ルワンダ虐殺と関東大震災虐殺事件とは差異化すべきもので、町山氏の指摘の無効性を主張しているのだから。
通州事件なら構わないが、関東大震災とは差異化されるべきであり無効というのは、いったいどういうことか。ホロコースト通州事件の特殊性は、とるに足らないと本気で考えているのか。

こういうのはご都合主義的な「差異化」であり、民族主義的な「切り離し」処理でしかない。
美辞麗句を重ねても、「通州事件‥とするところ」発言で露呈したものを打ち消すことはできないだろう。

参考;

このような言説は「朝鮮人虐殺」への寄り添いの拒否だけでなく、まさに町山氏が危惧していたような、ルワンダの事件を「他人事」として捉えるものだ。

http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060305#p1
http://d.hatena.ne.jp/hokusyu/20060305#p2