自由主義史観研究会員・茂木弘道氏、「はてな」でデマ言説=ブラック・プロパガンダ(その1)

茂木弘道の「世界出版ブログ日記」 1月27日 「WILL3月号」コメント欄

前置き;これは茂木氏自身のコメントである。

hmotegi 「(中略)ブラックプロパガンダであるかどうかは、事実を語っているかどうかです。
(2006/01/28 10:29)


さて本論;私の質問

kemu-ri 「(中略)世田谷区ほどの広さの南京」とありますが、東中野氏の「南京事件の徹底検証」48頁を見ると「ちなみに南京市は、民国23年(昭和9年)の各省市区分によって、南京城内の8区のほかに、城外の燕子磯区(城北)、孝陵区(城東南)、上新河(城西南)の三つの郷区を併合した」とあります。この範囲は、1946年南京法廷の主張する南京事件の空間範囲とほぼ重なりますが、1937年時点の南京市が「世田谷区ほどの広さ」というのは、これは明らかに事実と大きく異なるはずですが、この点いかがお考えになりますか。』 (2006/01/29 10:53)


茂木氏の返答(2月2日 「ブラック・プロパガンダ」エントリー本文)

まず、南京の地域が近郊を含む広域になっていたではないか、それを南京城内の世田谷区以下の地域に限定するのはけしからんという論についてです。

この論は南京城内では、どうしても大虐殺など成り立たないということになったものだから、最近虐殺派が盛んに言い出していることです。

そもそも南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です。


では、『南京事件資料集 2中国関係資料編』P297〜P306所収、1947年3月10日・南京軍事法廷の判決文を確認すると…。
「南京事件 小さな資料集」参照)

「事実」の項

調査によれば虐殺が最もひどかった時期はこの二十六年十二月十二日から同月の二十一日までであり、それはまた谷壽夫部隊の南京駐留の期間内である。中華門外の花神廟・宝塔橋・石観音・下関の草鮭峡などの箇所を合計すると、捕えられた中国の軍人・民間人で日本軍に機関銃で集団射殺され遺体を焼却、証拠を隠滅されたものは、単燿亭など一九万人余りに達する。

「機関銃で」が正しいか、「一九万人余り」が正しいかは別にして、「中華門外の花神廟・宝塔橋・下関の草鮭峡」は全て城外である。(石観音については煙個人は未確認)
はっきり捕えられた中国の軍人・民間人と書いてある。



「理由」の項

南京を陥落させて以後、共同攻撃した各部隊と南京市内各地区に分かれて侵入し大規模な虐殺をおこなった。捕らわれた中国の軍人と民間人で、中華門・花神廟・石観音・小心橋・掃箒巷・正覚寺・方家山・宝塔橋・下関草蛙峡などの場所で、残酷にも集団殺害され死体を焼却された者は一九万以上に達する。中華門・下埠頭・東岳廟・堆草巷・斬龍橋などの場所で分散的に殺され、遺体が慈善団体によって埋葬された者は一五万以上に達する。被害総数は合計三十万人余りである。

人数の精度は別にして、中華門・花神廟・方家山・宝塔橋・下関草蛙峡は城外である。(石観音・小心橋・掃箒巷・正覚寺については煙個人は未確認)。
はっきり捕えられた中国の軍人・民間人と書いてある。



なお(南京の虐殺記念館の展示の内容から参照するに)中国の言う「城外で殺された民間人」とは、多くは揚子江対岸へ避難する途中で拘束された難民のことらしい。(リンク先検索中)
同記念館の展示で中国側の主張する13箇所の大規模殺害地点のうち、12箇所が城外、城内は安全区内の「大方巷広場」1箇所のみ。(同上)




認定;茂木氏の以下の発言は「事実を語っていない」ので「デマ言説」であり茂木弘道氏のブラック・プロパガンダ(その1)」と認定する。

まず、南京の地域が近郊を含む広域になっていたではないか、それを南京城内の世田谷区以下の地域に限定するのはけしからんという論についてです。
この論は南京城内では、どうしても大虐殺など成り立たないということになったものだから、最近虐殺派が盛んに言い出していることです。

そもそも南京法廷、そして東京裁判で虐殺の饗宴が起こったとされているのは、南京城内です。


これは揚げ足取りではなく、東中野修道氏および南京事件研究会(の主張)のアキレス腱に関わる事項である。